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CNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance:平野氏からのコメントへの返信
僕が人とそつなく交われるかどうかはわからないけど、
どちらかというと場の空気を読んで人と合わせた会話をしてしまうタイプだと思う。
そして自分の個性をほとんど披露することなくある種上辺だけの会話をしてしまっている。
でもそういう風に生きているといつの間にかモヤモヤがたまっていって、
そのモヤモヤをある程度押し付けがましくない形で表現するためにblogを書いているのかもしれない。
例えばこの5月20日のエントリなんか実際にCD持ってきてこれいいから聴いてよ!なんてやったらうざい以外の何者でもないけど、
こういう形なら聴きたい人だけ聴くし、聴きたくない人は気兼ねなく無視することが出来るし、全くの他人が検索して発見することもあるんだよね。
それってすばらしい!
なんて思う一方、
こういう考えは少しドライすぎるんじゃないかとも思う。
でも残念な事に僕にはそういう無邪気さは生まれながらに持ち合わせてないみたい。
江島は、僕のことを個人的に知っているから、何となく想像できると思うけど、僕は必ずしも社交的ではないけど、割とそつなく人と交われる方で、それは十代からあんまり変わってないんです。だけど、中学、高校時代と、僕はずっと、今の言葉で言えば、敏感に「場の空気を読んで」、うまく人とコミュニケイト出来る一方で、自分の中には、そんなスムーズな対人関係には収まりきれない、いろんなろくでもない考えや、役にも立たない思いが満ちあふれていると常に感じていました。社会的に有用である、ということに、どうしても自分のアイデンティティを全的に賭することが出来なかった。そのろくでもないようなものの一抱えすべてが自分だと感じていたし、それをやっぱり表現したかった。それがまぁ、作家になった一番の動機です。
それで、僕は今、小説を書いていて、本当によかったと思う。僕は、親類や友人を含め、小説を通じて、初めて自分という人間を、十分に理解されつつある気がします。注意深くあえて書けば、それは「本当の自分」なんかじゃなくて、要するに、自分という一個の人間の複雑な組成、「複数性」を理解されつつあるという感動です。それで僕のことをもっと好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるだろうけど、それは納得のいく好き嫌いで、自分の様々な面を抑圧しながら人に好かれるよりはずっといいと思う。僕はやっぱり、意識の有無に拘わらず、「普通の人」として社会的な人間関係に自分を結びつけるために、その多くの部分を日常のコミュニケイションから削ぎ落としていたと思う。今はその部分の存在を、僕も相手も、一種の前提としてコミュニケイト出来ています。
僕が人とそつなく交われるかどうかはわからないけど、
どちらかというと場の空気を読んで人と合わせた会話をしてしまうタイプだと思う。
そして自分の個性をほとんど披露することなくある種上辺だけの会話をしてしまっている。
でもそういう風に生きているといつの間にかモヤモヤがたまっていって、
そのモヤモヤをある程度押し付けがましくない形で表現するためにblogを書いているのかもしれない。
例えばこの5月20日のエントリなんか実際にCD持ってきてこれいいから聴いてよ!なんてやったらうざい以外の何者でもないけど、
こういう形なら聴きたい人だけ聴くし、聴きたくない人は気兼ねなく無視することが出来るし、全くの他人が検索して発見することもあるんだよね。
それってすばらしい!
なんて思う一方、
こういう考えは少しドライすぎるんじゃないかとも思う。
でも残念な事に僕にはそういう無邪気さは生まれながらに持ち合わせてないみたい。